よくある業務シーンを想像してみてください。ある調達担当者は数カ月をかけてプロンプトを何度も調整し、ようやくAIが見積書と仕様書の差異を正確に照合できるようになりました。日々の作業は速くなり、結果も次第に安定していきます。しかし、そのプロンプトはずっと担当者個人のAIアカウントに保存されたままです。ある日、その担当者が退職してアカウントも停止されると、後任者はまた一から試行錯誤しなければなりません。
品質保証エンジニアにも同じことが起こり得ます。図面審査のロジックを十分に練り上げ、どの種類の図面にどの規格を補うべきか、どのようなケースはAIに任せず、人が対応しなければならないかを把握していたとします。しかし、こうした判断はすべて本人の会話履歴にしか残っておらず、ほかの人は見ることができず、会社も引き継げません。
したがって、企業にAI活用能力が蓄積されているかを判断する際、利用者の人数や会話量、あるいは一部の部門で成功事例が生まれたかどうかだけを見ても意味がありません。問うべきなのは、社員がどのプロンプトを修正し、どのデータを使い、自分の経験をどのようにAIへ教えたのかということです。こうした情報をほかの誰も把握していなければ、会社がサブスクリプション料金を負担していても、学習の成果は個人の中にとどまったままです。
誰もがAIを使っているのに、会社にはノウハウが残らない
MIT NANDAの2025年の調査によると、正式な言語モデルのサブスクリプション、つまり企業が一括で契約・管理する法人向けプランを導入している企業は、回答企業の40%にとどまりました。一方、回答企業の90%以上では、従業員が個人向けAIツールを日常的に業務へ利用していました。
MicrosoftとLinkedInによる2024年のWork Trend Indexでは、31カ国の31,000人を調査しています。仕事でAIを利用している人のうち、78%は自らツールを職場へ持ち込んでおり、52%は最も重要な業務にAIを使っていることを認めたくないと回答しました。つまり、AIはすでに日常業務に入り込んでいるものの、その利用実態の多くは依然として会社の管理が及ばないところにあります。
台湾企業にも同様のギャップがあります。台湾人工智慧科技基金会とQualcommが共同で実施した「2026年台湾産業AI化大調査」によると、企業内におけるAI利用の61.8%は、会社の管理範囲外で行われています。
従業員が自ら見つけたツールで業務を処理している一方、会社は何が使われ、どのようなデータが入力され、その出力がどう活用されているのかを把握していません。このような未登録・未管理の利用が、いわゆるシャドーAIです。
シャドーAIがもたらす2つの代償
1つ目の代償は、仕事の進め方が失われることです。
MITの調査には、ある企業法務担当者の事例が紹介されています。その担当者が所属する組織は、専門的な契約分析ツールを5万米ドルで導入しました。しかし、本人は必要な内容になるまで何度も修正できるという理由から、文書の草案作成には引き続きChatGPTを使っていました。個人の立場から見れば、使いやすいツールで目の前の生産性も上がるため、合理的な判断です。しかし、試行錯誤を重ねて作られたプロンプトや判断方法、対応経験は、会社には残りませんでした。
2つ目の代償は、情報漏洩のリスクです。
IBMの2025年版データ侵害コストレポートによると、シャドーAIの利用度が高い組織では、1件当たりのデータ侵害コストが、利用度の低い組織またはシャドーAIを利用していない組織よりも平均67万米ドル高くなっています。サイバーセキュリティ企業Cyberhavenの2025年のレポートでは、企業がAIツールに共有したデータの34.8%が機密データに該当し、その83.8%が高リスクまたは重大リスクと評価されたプラットフォームへ流れていたことが明らかになりました。同社の2026年のレポートでは、ChatGPT利用の32.3%が個人アカウントで行われ、AIツールに入力されたデータの39.7%に機密情報が含まれていたことも示されています。
こうしたリスクに直面した企業は、まず全面禁止に踏み切ることがあります。2023年4月、Samsungのエンジニアが社内のソースコードをChatGPTへ貼り付けたことを受け、Samsungは従業員による生成AIの利用制限を発表しました。禁止措置によって情報漏洩の可能性は抑えられます。しかし、従業員がすでに試行錯誤して編み出したプロンプトや判断基準、例外への対応経験を会社に残すことはできません。ツールを遮断しても、経験が失われるという問題は解決しないのです。
どのような内容なら会社に残せるのか
会社が残すべきものは、タスク、スキル、そして検証記録の3つです。
タスクには、定型業務でどのように入力を受け取り、どのような結果を出力するかを記録します。スキルには、レポートの書式、審査基準、翻訳用語など、複数のタスクで利用する共通ルールを定義します。検証記録には、どのケースで失敗し、その後どのように修正したのかを残します。こうした内容を蓄積したものが企業の業務経験であり、最も重要なAI資産の一つとなります。
ただし、プロンプトを共有フォルダーへ保存するだけでは、完全なAI資産とはいえません。継続的に活用できる資産にするには、バージョンが管理されていること、管理責任者がいること、適用範囲が明確であることが必要です。さらに、言語モデルを変更しても引き続き利用できなければなりません。
実務では、タスクを修正するたびに、管理責任者がその変更を個別案件だけに適用するのか、それとも共通ルールを更新すべきなのかを判断する必要があります。規程が改訂されたときには、影響を受けるタスクへ通知し、再実行と再検証ができる仕組みも必要です。そうでなければ、個人アカウントに散在していた情報を、誰も整理しない別の場所へ移しただけになってしまいます。
仕事の進め方が会社に残っていなければ、後任者は何度も試行錯誤を繰り返すことになります。そのコストは、想像以上に大きなものです。PanoptoとYouGovは2018年、米国のナレッジワーカー1,001人を対象に調査を実施しました。回答者は、同僚から重要な情報が提供されるのを待ったり、社内にすでに存在する知識を作り直したりするために、週平均5.3時間を浪費していました。
製造業には、悠長に待っている時間はない
台湾の製造業にとって、知識の蓄積は業務効率だけでなく、人材構成上のリスクにも関わります。
台湾労働部のデータによると、製造業で働く45歳以上の就業者は132万2,000人で、同産業の就業人口の44.2%を占めています。同時に、製造業には8万5,000件の求人があり、フルタイム人材を採用するまでに平均3.2カ月を要しています。熟練者が少しずつ現場を離れ、新人の採用も難しい状況では、経験の継承を師弟間の口伝だけに頼ることはできません。熟練者の経験を、早いうちに残しておく必要があります。
まず知識を整理し、その後モデルにつなぐ
知識の整理を始める際は、会社の仕事の進め方を、まず2つに分けることができます。
繰り返し実行する業務は、タスクとして記述します。たとえば、月次出荷レポートの集計、BOMと図面の照合、通関書類の作成などです。業務を行う際に守るべきルールは、スキルとして記述します。たとえば、レポートの書式、審査基準、翻訳用語などです。タスクを1回実行するたびに1つの結果が生成されますが、スキルは複数のタスクから同時に参照できます。
知識の資産化とは、こうした仕事の進め方に管理責任者を置き、必要な人が見つけられる状態にするとともに、会社がツールを変更しても引き続き利用できるようにすることです。手順としては、企業はまず知識を整理・検証し、その後モデルへ接続する必要があります。モデルを導入しても、企業内の知識が整理されていなければ、十分に活用することは困難です。
Morgan Stanleyは、約10万件の社内文書を整理、分類、検証したうえで、ファイナンシャルアドバイザーとプロンプトエンジニアがAIの回答を評価しました。その結果、アドバイザーによる社内文書の利用率は20%から80%に上昇しました。台中のワイヤー加工会社である新呈工業も、まずAIを使って熟練技術者の暗黙知を教材と完全なSOPへ整理しています。
この2社は企業規模が大きく異なりますが、採用した手順は同じです。まず、人材、文書、業務現場に散在する知識を整理し、その後AIに活用させています。これにより、会社が支払うものは毎月のサブスクリプション料金だけではなくなります。保守でき、継承でき、将来も使い続けられるAI資産を蓄積できるのです。
本記事は、Intellicon Solutionsのホワイトペーパー『Agent-Ready:台湾製造業AI活用ホワイトペーパー』からの抜粋です。ホワイトペーパーでは、タスクとスキルの違い、AIガバナンスにおける承認条件を詳しく解説し、12項目の自己評価チェックリストも掲載しています。
参考資料
- MIT NANDA、The GenAI Divide: State of AI in Business(2025)
- Microsoft & LinkedIn、Work Trend Index 2024
- 台湾人工智慧科技基金会、「2026年台湾産業AI化大調査」
- IBM、Cost of a Data Breach Report 2025
- Cyberhaven、2025 AI Adoption & Risk Report
- Cyberhaven、2026 AI Adoption & Risk Report
- TechCrunch、Samsungによる生成AIツールの利用禁止(2023)
- Panopto、Workplace Knowledge and Productivity Report(2018)
- 台湾労働部、2025年中高年者・高齢者の就業状況
- 台湾労働部、2025年12月末時点の求人欠員調査
- OpenAI、Morgan Stanley事例
- TVBSニュース、新呈工業「熟練工GPT」